カイボイスンってどんな人?
72年の生涯を送ったカイ・ボイスンがモンキーを生み出したのは65歳の1951年。この年は、ミラノの国際展覧会で彼のステンレスカトラリーがグランプリを受賞した年でもあります。
デンマークを代表する名デザイン(一方は木、もう一方はステンレス)が同時期に世に出たというのは面白いですよね。
彼は、ジョージ ジェンセンでの修行と独仏での専門教育を経て、27歳で銀細工師として自身の工房を開きます。初めは当然銀製品ですが、扱った素材はその他に、錫、ステンレス、様々な木材、ボーセリン、ガラス、ラタン、
竹など多種多様。アイテムも、ジュエリー、食器、玩具、オブジェ、家具など多岐に渡り、生涯で2000点以上のデザインをしたと言われています。カイ・ボイスンとは、一体どういう人物だったのでしょうか。彼の人生を少し紐解いてみましょう。
越境する人、
カイ・ボイスン
銀細工修行の前に遡ると、もっと若い頃に親元を離れて郊外の食料品店でも見習いの経験があります。大学進学者がまだ少なかったとはいえ、裕福でアカデミックなボイスン家では、
家計のために仕方なく働きに出た訳ではありません。父はノーベル文学賞作家も手掛ける出版業界エリート、母はアーティスト、上の兄は医者、妹は建築家と結婚しています。
この食料品店での修業時代に、会計知識、ディスプレイ、接客など、商売人としてのセンスを身につけたようです。自身の工房がすぐ軌道に乗ったのも、こういった経験が生かされたのでしょう。
工房の運営についても興味深い点が多くあります。アール・ヌーボースタイルで一世を風靡したジョージ ジェンセンでの修行を望んだことからもトレンドに敏感だったことが窺えますが、その後そのスタイルが流行らなくなると彼独自のシンプルなデザインへと変化していきます。世界的な恐慌で人々が銀製品を買えなくなると素材を木に変えて価格を抑えたり、戦後にステンレスが普及し始めるとすぐに取り入れたり。
また、息子の誕生を機に木製を始めたり、アフリカ滞在の経験からゾウやゼブラなどエキゾチックな動物をモチーフにしたり…。(余談ですが、デンマークでは動物園にしかいないモンキーが、今やデンマークのアイコンになっているのは面白いですよね。)
一方、デンマークデザインの普及にも尽力し、国内外へ広めるためにはコミュニティが重要という信念から、職人自身が作品を発表・販売をする場としての「Den Permanete(英訳 The Permanent)」の設立・運営に積極的に携わりました。
私生活では、お酒は弱かったものの大変な社交家だったようで、30年代に移り住んだ親友アルネ・ヤコブセンが設計した集合住宅では、毎週家族や友人が集まるサロンを開いていました。
同時代を牽引するクリエイターたちと刺激を与え合ったり、子ども家具の開発などでは小児科医や教育関係者と意見交換をしたり。職業や立場に拘らずオープンマインドな人付き合いをしていたようです。
これまで見てきたように、彼の最大の特長は「越境する人」であったこと。固定概念に捉われず、常に挑戦する心や先見性を持っていたことで、「素材」や「様式」のみならず、
「職業スタイル(職人/商売人/起業家)」や「目線(子ども/大人)」といった境界を自由に飛び越えてしまう人だったのです。現代では、ボーダーレスやダイバーシティといった言葉が注目されていますが、
その時代において枠を超えて自由に行き来するのは簡単ではなかったはず。だからこそ、「国境」や「世代」、そして、「時代」を超えて愛されるデザインが生まれたのです。
※参考文献『KAY BOJESEN -The Joy in Danish Design』(TRAPHOLT、2018年)